砂のお城

生きるか死ぬかみたいな毎日

吸って吐き出した。

 朝井リョウの「何者」を今更ながら読み終えた。

 朝井リョウのデビュー作「桐嶋、部活やめるってよ」を初めて読んだのは確か高校2年生の頃だった気がする。最初の5ページぐらいでなんか読むのが嫌になっちゃってそれきりだった。数年後、Tumblrで朝井リョウさんの小説の一節を何度か目にするようになり、気になるようになり、読み始めたらハマってしまった。確か、朝井リョウさんの本で初めてちゃんと読んだ本は「もういちど生まれる」だった。破りたかったもののすべてが当時の自分にすごく重なって苦しくて切なくなった記憶がある。

 

 今日読み終えた「何者」はまた違った感じで、現代の若者や就活生がリアル描かれていて面白かった。そして思ったことは、就活が終わってからこの本を読んでいてよかったなあと。きっと就活の最中に読んでいたら、わたしは疑心暗鬼で死んでいたかもしれない(笑)わたしがなりたいのは拓人だけど、絶対なれない。感想とかあんまり書くのが昔から得意じゃない。でも、なにか自分の中に響いたものがあったとき、誰かに話したくなる。瑞月が隆良に放った言葉と理香が最後に拓人に吐いた毒がすごい響いた。特に理香の言葉は、理香のプライドの高さとか悔しい気持ちとかがすごく込められて板と思う。不器用な子だなと思った。ちょっと自分に似ている気がして、生きにくそうな子という印象を受けた。酔った光太郎の話の内容で「就活が終わりじゃなくてそこからどうなりたいかとか考えてないと何者にもなれない」って話が今の自分の課題となって残った。4月に内定もらって、それから内定社会には何回か参加して同期とかとあっていろいろ話して、ただいっしょにがんばろうね~なんていうゆるい考えだけで働いていたらなんにもならないんだなって。大きなことじゃなくていいから、自分の人生における目標を達成するために、その会社に属しながら何が出来るかを考えていくことが大切なんだなって思った。

 本当に朝井リョウさんの言葉ってリアルで、ふとしたときにスって、カッターで切られるみたいな鋭さがある気がする。日常に潜む毒に気づいてはっとするような感じ。小説の帯に書いてあった「ラスト30ページ、物語が襲いかかる!」って言葉、まさにその通りだった。本当に襲いかかってきた。

 

 わたしが今まで他人から評価を得ていた軸は、競技成績や部活のポジションだった。でも来年から、その軸がなくなる。そしたら一体わたしはどうやって自分を他人に評価してもらったらいいんだろう。ちょっと考えた。わたしは、競技がない自分でも昔の部活の仲間に会っても胸を張って頑張っていると言えるものが欲しい。さあこれをどうやって仕事から得よう。これから考えることだとおもう。

 

話が変わるのだけれど、来年から住む家をネットで探したりしてて、ふとその時思ったことが、わたし、ずっと一人で過ごす未来の自分しかイメージしてないなってことだった。今まで、部活で友達と旅行に行ったりとか遊んだりとか全くしてなくて、そんな人間でも、大人になっても、遊ぶ友達とかできるのかなって思った。1人で過ごすの、別に嫌いじゃないし好きだけれど、ずっとそんな休日が続くことはやっぱり苦しくて寂しいと思う。いろんなことがしたいし、それを誰かと共有したい。やりたいことや行きたいところがいっぱいあるし、恋人も欲しいし、家族にだって作りたい。コミュニティーの幅を広げたい。願望はたくさんある。でも、こんなわたしでもできるかな?ずっと1人だったらどうしよう!ちょっとそこがこわい。

 

 

本を読む意味ってなんだろうって考えた。

自分が経験してないことを誰かの言葉や話から経験して、自分の生活に生かすこと菜のかもしれないなと思った。当事者じゃないぶん状況を冷静に見る練習にもなるような気がする。わたしは常に主語がIの人間だから、わたしがにとっての本を読む意味は後者の意味合いが強いような気がする。

 

 

少し前にもう何もかも嫌になって発狂したときに気づいたことがあった。

いろいろ気にかけてくれる年上の人がいて、なにかと行き詰ったときに話を聞いてもらったり、相談にのってもらったりしていたのだけれど、その人と話した後っていつもなんでか苦しくて、逃げ場のない四隅にじりじりと追い詰められた感じがあって、なんでだろうななんでだろうなってずっと考えてた。考えて少し思ったことは、いくら話しても相手の状況を完全に理解することはできなくて、たとえアドバイスとかをしたりもらったりしても、自分の情が入り込んでいるから苦しくなるんだなって思った。上手く言えないけれど、これは自分が誰かに対してもしてしまっていることかもしれないから気を付けたいとおもった。「あなたのためを思って」という言葉に「あなたのため」になることは少ないって言葉をたまに聞くけれど、まさにその通りだと思った。でも難しいよね、自分としては相手のことを思ってやった行動や発言が、全然相手のためにならなくて、逆に相手を苦しめてるってなんだか切ない。

 

 

前に後輩に「先輩の言葉は正論過ぎて刺さるんですよ~」って笑いながら言われた言葉が未だに自分の中で成仏しきれなくて、時々その後輩を見ると怒りがふつふつとわきあがってしまう自分が情けない。その後輩は、いつも輪の中心にいて(妹キャラみたいな)練習も生活もいつも余裕そうで(わたしが気付けていないだけできっと彼女にも悩みや苦労があることはわかるんだけど)そんな姿を見ていると「私の何を解ってそんな言葉を言ったの?」って言いたくなる。ずっと前に言われた言葉なのに忘れられない。流せない自分が幼くて情けない。その後輩がいつも何でも余裕そうにみえることも、いつも輪の中心で楽しくすごしていることも、わたしがいつもいっぱいいっぱいで、人の

輪に上手く入れなくていつも陰で泣いていることもきっと理由があることはわかっているし、そんな言葉に囚われていたって何にもならないことは解っているのだけど、どうしても、今の自分では許せない。忘れられない。その後輩となにかあるたびに頭に蘇る。でもきっとわたしだって誰か(部活の同期とか、大学の友達とか、元彼とか)を気付かないうちに傷つけて、他人の中に許せないものを作り出してしまっているだろう。全てを守り抜いたり、傷つけないようにすることって無理なんだろうな。

 

今朝、別な後輩と朝ごはんを食べていてふとした会話の中で「ちいさい頃に経験したことって絶対無駄にはならないってこんな時に先輩なら言いそうですよね」って言われた。すごく恥ずかしかった。確かにそう思ったし、でもなんか自分の考えていることを後輩に読まれてるってめちゃくちゃかっこ悪いなって。しかも熱血みたいな考え。そんな風に見られているんだなって気づかされた。わたしはそんなに熱くないよ、経験したことって絶対無駄にならないって考えるのは、結果にならなかった自分を慰めるための言い訳だよ、わたしは要領が悪いから遠回りしてばかりいるし、そうやって自分がやって結果に出来なかったことも、せめて自分だけでも肯定しなきゃ生きて生けないから、全然かっこよくない。ダサいわたしの象徴。何者にもなれない、わたし。